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Espionage

第二章改訂版

 本文をお読みになる前に、ご確認をお願いします。
 本内容はフィクションであり、過去・現在存在したいかなる個人、団体とも関係がありません。
 また、作成者の意図に反し、暴力的・性的・差別的である、もしくは面白くないと感じる場合があります。

……お約束の警告だけど、最後の一言が一番しゃれなってないなぁ

ところで、今回は青空文庫形式でルビを振ってみました。《》で囲まれた部分がルビになります。
後、補足部分については、本文に(*)をつけて、コメントに脚注を書くという形でいこうと考えています。コメント等で質問があった場合、ネタバレにならない場合は追加する可能性があります。

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     (1)
 六月の声とともに東京市の廃止と東京府の東京都移行(*1)が正式に決定したことを受け、官庁街《霞ヶ関》は妙にあわただしかった。そんな中この雨だけに、普段は天候などさほど気にとめない役人達も流石に嫌気が差している。全く嫌らしい雨で、しとしとと降り続けるばかりでいっこうにやまない。そのくせ妙に水滴が細かく、雨傘ではすぐに横から回り込む雨で濡れてしまう。
 そんな官庁街の慌ただしさも、少し離れた場所に立つこのいささかくたびれた感のある建物には全く縁がないようであった。閑散としたとまではいかないが、それでも人影はまばらであり車の往来もさほど激しくはない。特に、陸軍戦史編纂課と呼ばれる部署の置かれた建物は、直接東京の行政と関わりを持たない部署が集まっている所為もあってか普段と全く変わらないように見える。
 その建物の前に、最近発表されたばかりのトヨタAC型が静かに停まった。米国から招致したデミング博士(*2)による品質管理という考え方に基づき改修されたそれは、従来のトヨダAA型を遙かに凌駕する性能を持っており、米国製自働車《シボレー》にも引けを取らないと言う謳い文句とともに発表された。会社《メーカー》としても社名自体をトヨダからトヨタへと変えるほどの意気込みで、官公庁への売り込みだけでなくタクシー用として滿洲への輸出も計画されているほどだ。さらに、市販時には王冠《クラウン》という車名を予定しているその車は、米国への輸出すら検討されており、輸出時に使用する専用輸送船の設計も進んでいるという噂がある。
 その車のドアを開こうと傘を持って近づいた護衛兵の前で、観音開きと呼ばれるドアの後部座席側が自分で開いた。無論自動開閉機構などついているはずもなく、乗っていた人物が開けたのだ。
 車から降りた男は、軍人なら多少の雨など無視すべきと思っているのか、護衛兵の差し出す傘を軽く手を挙げ断るとともに、軍帽をかぶり直すとすたすたと歩き出した。旧式の昭和五年式軍服につけられた襟章から中佐であることが見て取れる。
 入り口の前に立っている別の警護兵が男に対し右手を挙げ敬礼してきたので、返礼を返す。
 この男、奇妙なまでに兵達からの受けはよい。ずば抜けた行動力とずけずけと上にものを言う態度、そして私服を肥やすことが一切無く、料亭等に誘われても断るという事実から、腹の中は権力欲で真っ黒に汚れているにも関わらずカリスマ的な人気を誇っている。いや寧ろ、権謀という欲望を入れた所為で金銭等の世俗的欲望を入れるだけの余裕が器に無いだけかもしれない。
 そんな男が戦史編纂室などと言う部署に所属しているのは左遷にしか見えない。事実、周囲もそう思っていたし、本人もたまにそう漏らしていた。そして、左遷された原因もわかっている。ノモンハンの真相を知る一人として隔離されたのだ。彼以外の人間は、ハルハ河畔付近での演習中に発生した隕石落下とその直後に発生したソ連との紛争において、関東軍の大半以上が戦死している。実際、ノモンハンでの損害は壊滅という言葉ですら生やさしいものだ。通常、軍において戦死者が部隊の30%に達すると全滅と判定される。つまり、それだけ戦死者が発生すると、軍として機能しなくなるため、全滅と称されるのだ。
 だが、一連の事件では、関東軍として知られた軍全体のうち、生存者が一割に満たない状態であった。その中で、唯一軍事的意味での全滅状態に止まったのが彼の率いる大隊だけ。
 彼は、ノモンハン事変戦史編纂部と書かれたドアを押し開くと、奥に設けられた部長室に向かった。途中、打字手と呼ばれるタイピスト達に軽く頭を下げ挨拶をする。そのあたり、案外そつがない。
 ふと思うが、最近の女性進出は目を見張るものがある。滿洲の開発に多くの人間が向かった為もあって、事務仕事の一部は完全女性の仕事として定着している。現に、一般の持つ印象《イメージ》とは異なり、軍政部門での女性進出は高い。現にこの部屋にいるタイピストは全員女性だ。そして、さらに意外に感じるかもしれないが、彼はそれを好ましいことだと認識している。尤も、それは皇軍に蔓延する直接戦闘部門以外を軽視する発想から来ているのであるが。印字《タイプ》などという仕事は女子供で十分で、男子たるもの前線任務に就かずしてどうする、といった類の。
 壁際のガラスで区切られた今風《モダン》な部屋に入る前に、扉の前に置かれた席にちょこんと腰掛けた秘書の女性に声をかけた。
「今日の予定はどうなっているかね」
 彼女は机の引き出しから手帳を取り出すと、ぱらぱらとめくり中身を確認していく。秘書の大判の名札には、金子という名字とともに軍曹に相当する軍属であることを示す徽章《マーク》が付けられていた。彼女の手にした、日本能率協会から試用品《サンプル》として配られた日程管理手帳《能率手帳》(*3)には今日の予定が書き込まれていた。実際、軍曹相当官なだけありきわめて有能で、辻の日程管理は彼女に一任されている。
Kaneko3
「はい、ブレイク大尉とのお打ち合わせがこの後予定されています。昼からは部内での打ち合わせが有ります。それと」
 一旦口を濁らせた彼女に、辻は一瞬怪訝な表情を浮かべ、すぐに思い当たった。
「それと、夕刻より会合がございます」
「わかった」
 辻は苦虫をつぶしたような表情でうなずいた。場所は言わなかったが、おそらく高級料亭のたぐいであろう。辻の料亭嫌いは有名だ。
 予定を聞くと、そのまま立ち去ろうとして、ふと気づいたように金子に尋ねた。
「ところで、彼は来てるかね」
「あ、はい。今、下の酒保で待機しています」
「ならば、大尉との会見後合うので呼んでおいてくれ」
「了解いたしました」
 軽くうなずいた後ぎこちない敬礼をとる金子に返礼すると、辻は自分の机に腰を下ろし、交換手を通さない外線の受話器に手を伸ばした。

 一般には、このノモンハン戦史編纂課は、明らかな左遷とされている。
 職員の一部には、作戦研究の一環として送り込まれた参謀候補がいるし、情報関係の人間も多い。又、逆に一般人の軍属としての参画もわずかだが見られる。
 それは、戦史研究が作戦において重要であるという再認識から設けられたわけではない。実際、陸軍海軍問わず、皇軍では直接戦闘部隊以外を軽くみる悪癖から抜けられずにいた。その上、身内の恥を隠したがると言うどうしようもなく官僚組織の体質を持つ陸軍であるが、流石に負け戦として知られてしまったハルハ河畔紛争を隠しきることも出来ず、渋々ながら原因を追及するために設けられたとされている。だが実際には『原因は前年の隕石落下により発生した、関東軍の兵卒および新式兵器の損失である』という結論を導くためのものでしかなく、はっきり言えば出来レースそのものだ。だから課長の必要性は大して無い。
 と思われている。一般にも、そして、政府の大部分にも。それどころか、参謀本部でさえもそう思っているものが大半以上だ。
 だが、実態は全く異なっていた。
 第一、辻政信という男が、文句こそたれているが、簡単に従うはずがない。実際彼は、性格面で問題が多く、作戦も強引であり自己主義の強い小人物と称されることはあったが、行動力がないと言う評価をされたことは幸か不幸か無かった。そして、おそらく今後もそう評価されることはないだろう。
 そう、表向きこそ大敗北したノモンハン事件の戦史編纂であるが、実態は全く異なる。職員の大半が中野学校卒業生であるという裏事情を見れば、その目的は明確だ。一部では陸軍中野学校と呼ばれる同校は、特に謀略(テロ)・諜報(スパイ)・破壊工作(サボタージュ)・遊撃戦(ゲリラ)要員の育成を目的としている。
 そのような人材を使う部門は、いくら軍にあっても、多くはない。いや、多くないと言うより、当てはまるような部門は一つしか無かった。
 そして、今辻はその部門の責任者としてこの席に座っている。


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コメント

(*1) 史実では、戦争中の昭和18年6月に制定され7月に施行されている

(*2)史実では終戦後に招致され、日本製造業にQCの概念を教授している。

(*3)日本能率協会によると、昭和19年時点に現在の能率手帳の元祖と呼ぶべき手帳が大野化学工業で用いられていた。

投稿: 脚注 | 2008年3月 1日 (土) 22時10分

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